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江戸時代に入ると鎖国が始まり、大陸との交流や貿易には制限がかかります。
医学も例に漏れず限定的な情報しか得られなかったため、日本独自の考え方や治療法が発展していくことになりました。

漢方からは横道に逸れてしまいますが、日本の医学史にとって非常に重要な部分になりますので、少しだけ触れていこうと思います。

〜優れた産科の技術〜

江戸時代に活躍した医師のひとり、賀川玄悦は産科の医師であり、賀川流産科の祖とも呼ばれていました。その所以は、産科に手術を取りいれたり、鉗子分娩などの助産術を独自に考案するなど、多くの難産を救った点にあります。

彼が、産科医としての長年の臨床経験を元に著した「産論」は、後に日本へ訪れたオランダのシーボルトによってヨーロッパへ紹介されたほど高い評価を得ている書物です。

もうひとつ、賀川玄悦は正常胎位の発見という大きな業績を残しています。
それまで出産時には、胎児が回転することで頭が下へ向き、分娩に至るという考え方がなされていました。彼はそのような固定概念にとらわれず、自らの目で観察、考察して導いたことは賞賛に値します。


〜世界で初めての全身麻酔〜

華岡青洲は、世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出を行った外科医です。
実に、欧米でクロロホルムを用いた全身麻酔がなされる40年も前の話になるのですが。

以前、京都で外科医として診療に当たっていた華岡青洲は、中国で麻酔薬を使った手術が行われていたという話を耳にします。それを聞いた彼は、自分も麻酔薬を使って多くの命を救いたいという強い気持ちを抱き、実現するために邁進していきます。

詳しい研究内容については残されていませんが、試作した麻酔薬は患者に使用する前に、彼の母親と妻の身体を使って効果を確認していたとされています。こうして完成した麻酔薬は多くの患者を救い、彼の名は日本だけではなく世界の医学史にその名を馳せます。

しかし、これだけ大きな業績を残しながら、彼の著書はひとつも残されていません。なぜなら、患者と真摯に向き合い、個人の状態や症状に合わせて対処することの必要性を説いており、そのためには自身の知識と技術を磨いて向上させていく他ないと考えていたからです。

彼は、医学を学ぶのに近道はない、そう言いたかったのかもしれません。

漢方薬の元となる生薬には、植物や動物、鉱物由来など実に様々なものが使われていますが、その大半は植物です。その原料となる植物の栽培は日本国内でも行ってはいるのですが、依然として供給量が少なく、原料の9割近くを中国からの輸入に頼っているのが現状です。

しかし近年、中国からの原料輸入にも陰りが見えてきました。
これまでの乱獲が原因となり、不毛の土地が増えたとして中国政府が輸出量を制限し始めたからです。
さらに追い討ちをかけるように価格も高騰しつつあり、ますます生薬が手に入りにくくなっているのです。

生薬の供給が減少する一方、漢方薬の需要は年々伸びを見せています。それは日本国内だけに留まらず欧米にも広がっており、まさに狭い牌を分けている状態なのです。


この状況を打破するために、数年前から国内での栽培が活発化しています。


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 国内の大手製薬メーカーでは、生薬栽培農家との提携を増やすなどして原料を確保しようと躍起になっています。また、大手のみならず漢方を取り扱う薬局でも自前の薬草園で栽培するケースも増えてきています。

当むつごろう薬局でも例にもれず生薬を栽培しており、無農薬で質の良い漢方薬の提供に役立っています。


このような取り組みが、実を結んで国内での安定供給が実現すれば、海外の輸出制限や質の低下に左右されることなく漢方薬を製造することができるのです。



さらに喜ばしいことに、農林水産省では生薬栽培の技術の確立や普及、農業機械の改良などに補助金を支出し、企業や団体の新規参入を促す動きが出てきました。

また日本漢方生薬製剤協会では、漢方薬を生産するメーカーと農家とのマッチングを実施するなどして、栽培農家の絶対数を増やそうという動きも加速化しています。
生薬栽培を村おこしの一環として考えている自治体もあり、地方の活性化も期待できるので一石二鳥かもしれません。


しかし、多くの試みが全て良い結果を産むとは限りません。良質な生薬が栽培できるまでには、多くの困難が待ち受けています。

まず、生薬を栽培し始めてすぐに軌道に乗ることはあまりなく、基準をクリアしたものが栽培できるまでには数年の時間を要します。なおかつ、生薬栽培に使用できる農薬は通常と比べて制限が厳しく、その分手間や人手を必要とします。

おまけに、中には土壌や気候が合わずに中国でしか手に入らない生薬も存在します。


西洋薬と違い、一定の品質で大量生産することができない漢方薬。
今後も漢方の需要はさらに高まると考えられており、性急なパイプライン作りが期待されます。

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何事もやりすぎは良くないといいますが、これを上手く言い当てたものに「中庸」という言葉があります。やり過ぎではない、つまり「し過ぎない」「適当」といった意味合いを持ちます。
適当とは、決していい加減ということではなく、いい塩梅ということです。

西洋医学の考え方に当てはめると、数字が重要視されるので平均値という形で捉えられがちですが、漢方ではそのような考え方はしません。
一人一人の証が異なるように、その人にとっての中庸だと思われる部分があり、そこがちょうどバランスが取れて健康だとされているのです。


日常生活における、自律神経の変化をとってみてもそうですよね。
日中は多くの場合、心身が活発になり多くのストレスを抱えています。そういった状態は交感神経が優位となり、心拍数の増加や血圧が上昇しますが、その反面、消化器官の動きが鈍くなっています。

そして、仕事を終えた後や入浴後などリラックスすると、今度は副交感神経が優位となります。それまで緊張していた身体は次第にほぐれて心拍数は減りますが、一方で胃腸の働きは活発になり休息の時間へと移り変わります。

これが、交感神経や副交感神経にばかり比重が偏っていてはどうでしょう。
自律神経の乱れは、多くの疾患や不定愁訴をもたらします。そのバランスは、万人にとってベストな状態というものはなく、その人の体質やこれまでどのようなライフスタイルを送っていたかによっても、ちょうど良い加減が異なるものです。


このような考え方は、わたしたちの生活にも取り入れることができます。
他人や物、お金に対して興味や執着はあって当然のことですが、それが度を越してしまうと、様々なリスクを生み出します。そして時には、マイナス面しか残らずに幸せを逃してしまっていることだってあるのです。


自分にとっての中庸、バランスの取れた状態を知るためには日頃からよく自分自身を知っておくことが大切ですが、それに加えて、かかりつけ医や相談できる薬局などがあればより良い環境だといえるでしょう。

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今回は日本に伝わる以前、つまり中国での成り立ちについて解説していきます。

漢方の起源は非常に古く、殷の時代である紀元前1500年頃だと言われています。文献上で最古の医学の存在が確認できたのもこのころです。疾病や身体の不調を治すため、自然に存在する草や木を煎じていたのですが、まだ数種類を組み合わせるまでには至らなかったようです。

殷の時代から始まった漢方の歴史ですが、その背景には中国の気候やその暮らしが大きく関係しています。

なぜなら、中国は広大な面積を持つ国ゆえに、全く異なる気候や風土が多々存在しており、技術が進化していない古代であれば、その影響は多大に受けたことは想像に難くないからです。


中国の気候や風土は、次のように地域別に分けることができます。

▶︎東の地は海に接しているため魚をよく食しますが、同時に塩分の多い物もよく食べられていました。そのため、熱気を生じることが多く鬱血しがちです。これを打破するために、メスや時には石を用いて患部から膿や血を出す治療法が為されていました。

▶︎西の地は高原地帯に属します。気候が涼しく寒冷の地であり、室内で過ごすことが多かったようです。気分も塞ぎがちでしたので、各臓器まで悪影響を及ぼしました。そのため、臓器の状態を良くし、病を克服するための漢方が発展していきました。

▶︎北の地は日差しが弱く、寒冷な地域です。人々は遊牧民としてテントで生活し、常態的に身体が冷えていたため、お灸で温める方法が盛んにおこなれていました。

▶︎南の地は湿気が多く紫外線が強いため、日焼けをすることが多く、肌も荒れがちです。そのため、生じやすい痛みを緩和させるために鍼治療法が発達していきました。

▶︎中央部は交通に便の良い平原であり、穏やかな気候です。他の地域よりも豊かな生活をしているため、身体を動かす機会が減ると共に血行も悪くなっていました。ですので、少しでも血行を良くするために按摩が発達していきました。

このように見ていくと、古代の人々が少しでも健康に生活できるようにと工夫が凝らされていたことが、よくわかります。私たちは現在、彼らの努力の恩恵を多大に受けているのです。

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今回は、日本における漢方の歴史にとって重要な転機を紹介します。
今日の漢方医学の主流派ともなっている古方派は、江戸時代に始まりました。観念的な理論を排除して積み重ねられた経験を重んじ、古来より存在する傷寒論や金匱要略方論へ立ち返ることを目的としています。

そのため、時に後世派と激しく対立することもあったようです。
古方派では、ぜひ3人の人物を知っていて欲しいと思います。

●名古屋玄医
古方派の始祖とされ、それまで主流であった後世派を排除して古典を重視していた人物です。
彼は実に多くの書物を読んでいましたが、強く影響を受けたのが明の喩嘉言の著「傷寒尚論」です。
この書物がきっかけで名古屋玄医は張仲景を師と仰ぐようになり、後世派の根幹である李朱医学を排していくのです。

●後藤艮山
名古屋玄医が古方派の祖であるならば、彼は古方派を確固たるものにした人物です。しかし、名古屋玄医に師事して弟子になったわけではなく、入門を断られたので自力で学んだという経緯があります。

彼は名古屋玄医のように傷寒論だけではなく、効果がある民間療法や灸、温泉療法も取り入れたことは名古屋玄医と異なる点です。貧しい暮らしの中で医学を学んだ経験から、救民のために尽くしたので慕われており、患者も門人も非常に多く抱えていました。

●香川修庵
後藤艮山に医学を学んだ彼は、同時に儒学を伊藤仁斎から学ぶことで、儒と医は元来ひとつであるという儒医一本説を唱えた人物です。

彼はまた、自身でその薬効を確認して効果が確かなものだけを記録した書物、「一本堂薬選」を記しています。この書物は物事を実証的にみているなど、過去の方法や視点に縛られない姿勢がうかがえる一冊です。

この頃になると、彼を筆頭とした古方派は後世を厳しく批判していくことになります。そして、古方派はその後、山脇東洋や吉増東洞といった人物により発展の一途を辿っていくのです。


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