気苦労が絶えない。取り越し苦労が多い。
気が回ることも、人徳の一つと思いますが、
回し過ぎて、それで気を揉んでしまうと本末転倒。
そうして生じる苦労は、心身の疲労にも及びますから。
物事を運ぶのが上手か下手か。
「好きこそ物の上手なれ」という訳ではありませんが、
好きだからこそ、受け入れられる苦労も存在します。
その一方で、好んでもいないのに作ってしまう苦労の類は、
それ自体をストレスに感じることもあり、注意が必要です。
苦労することにはストレスを感じるが、
そこから抜け出せず、同じ思考に陥ってしまう。
なかなか楽観的になれない。気の持ちようかもしれませんが、
その持ちようが簡単に変わらないからこそ
苦労するという「型」にはまり、そこから抜け出せないでいる訳です。
そういう苦労に陥れば、まるで数珠繋ぎのように続いてしまい、
やがて対象が限定されず、苦労が絶えなくなっていきます。
気が回ることも、人徳の一つと思いますが、
回し過ぎて、それで気を揉んでしまうと本末転倒。
そうして生じる苦労は、心身の疲労にも及びますから。
物事を運ぶのが上手か下手か。
「好きこそ物の上手なれ」という訳ではありませんが、
好きだからこそ、受け入れられる苦労も存在します。
その一方で、好んでもいないのに作ってしまう苦労の類は、
それ自体をストレスに感じることもあり、注意が必要です。
苦労することにはストレスを感じるが、
そこから抜け出せず、同じ思考に陥ってしまう。
なかなか楽観的になれない。気の持ちようかもしれませんが、
その持ちようが簡単に変わらないからこそ
苦労するという「型」にはまり、そこから抜け出せないでいる訳です。
そういう苦労に陥れば、まるで数珠繋ぎのように続いてしまい、
やがて対象が限定されず、苦労が絶えなくなっていきます。
漢方でも、苦労は心に及ぶと見立てます。
苦心という表現もありますが、「苦さ」は心の正常なバランスを保つ上での
スパイスのような存在ですから、それ自体は悪ではありません。
(「心が節度を守るように、苦い思いでバランスを取る」といったところでしょうか…)
苦労というのは、心のバランスを保つはずの「苦」が行き過ぎて
「労」に及んだ状態に相当し、心は次第に困憊していきます。
それに対して、自然と苦労してしまう気質(≒苦労症)は
不特定なものにまで「苦さ」を感じるほど、心が矮小になった状態に当たります。
心の気が小さく、軽くならずに浮かびにくくなる。
心は血液や体液循環の要でもありますから、
心の気が小さいと、体内の色々な要素も回転しづらくなります。
つまるところ、それが淀みや浮腫となって、
さらに回転を阻害して、心は塞ぎこんでしまう訳です。
漢方では、この回転を阻害して、心を塞ぐ存在を「痰」とか「水毒」と呼びます。
苦労が多い時に服んでおきたい漢方薬とは即ち、
心が支える回転を養う漢方薬、その回転を阻害する「痰」を解消する漢方薬を意味します。
それには例えば、帰脾湯や補中益気湯、小柴胡湯、
あるいは温胆湯や苓桂朮甘湯、半夏厚朴湯などに一服の価値があります。
苦心という表現もありますが、「苦さ」は心の正常なバランスを保つ上での
スパイスのような存在ですから、それ自体は悪ではありません。
(「心が節度を守るように、苦い思いでバランスを取る」といったところでしょうか…)
苦労というのは、心のバランスを保つはずの「苦」が行き過ぎて
「労」に及んだ状態に相当し、心は次第に困憊していきます。
それに対して、自然と苦労してしまう気質(≒苦労症)は
不特定なものにまで「苦さ」を感じるほど、心が矮小になった状態に当たります。
心の気が小さく、軽くならずに浮かびにくくなる。
心は血液や体液循環の要でもありますから、
心の気が小さいと、体内の色々な要素も回転しづらくなります。
つまるところ、それが淀みや浮腫となって、
さらに回転を阻害して、心は塞ぎこんでしまう訳です。
漢方では、この回転を阻害して、心を塞ぐ存在を「痰」とか「水毒」と呼びます。
苦労が多い時に服んでおきたい漢方薬とは即ち、
心が支える回転を養う漢方薬、その回転を阻害する「痰」を解消する漢方薬を意味します。
それには例えば、帰脾湯や補中益気湯、小柴胡湯、
あるいは温胆湯や苓桂朮甘湯、半夏厚朴湯などに一服の価値があります。