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江戸の激動を語る「鞆(とも)の保命酒」

「鞆(とも)の保命酒」

広島県福山市鞆(とも)町に「鞆(とも)の保命酒」と名のついた薬用酒があります。

「鞆の保命酒」の成り立ちは、古く江戸時代にさかのぼりますが、鞆(鞆の津)は歴史の舞台にたびたび登場します。そのため、波風に耐えた石造りの雁木や常夜灯とともに、「鞆の保命酒」が観てきた歴史は、まさに江戸時代の流動の大河ドラマなのです。

大河ドラマのはじまり

山陽道で、岡山県境の広島県福山市から、沼隈半島の先端に向かって約14km、海岸に出たところが鞆の町です。

東は紀伊水道から、西は豊後水道からの満ち潮は、瀬戸内海のほぼ真ん中に位置するといわれる鞆の沖合いでぶつかるため、その潮に乗って、船は鞆の港へ入り、引き潮に乗って再び船出していったといわれています。

鞆の浦

そのため、万葉の時代から、潮待ちの港として栄え、大伴旅人の歌に

吾妹子が見し 鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき

と詠まれています。

鞆の名は、海岸部が弓形となり、弓を射るときに左手につける皮製の具の名を鞆と呼ぶに由来します。

1175年には、平重盛が厳島神社への途中来訪し、静観寺の境内(現小松寺)へお堂を建立し松を植え、

天に伸びれば平家は栄え、地をはえば平家は滅ぶ

と詠んでいます。

また、足利将軍家とは非常に縁が深く、1336年に足利尊氏が室町幕府成立の為に京へ挙兵し、1576年は織田信長に攻められ室町最後の将軍足利義昭が鞆に逃れた為、鞆幕府の名さえ残っています。


鞆は、朝鮮通信使の寄港地でした。
朝鮮通信使は、1375年に足利義満によって派遣された日本国王使に対して、信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりとされ、以来、馬関(下関)を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは輿と徒歩で江戸に向かうルートをとっていました。

事実、福禅寺に泊って、他の信使と共に庭上で、瀬戸内の景観を賞でながら大毫をふるい、 「日本第一形勝」 と墨書しています。 このとき(1711年)に酌み交わした酒は、すでに造り始められていた「鞆の保命酒」であったのでしょう。

漢方医 中村壌平利時の長男 吉兵衛吉長

江戸時代の初め、大坂生玉神社の近くで開業していた漢方医中村壌平利時の長男吉兵衛吉長は、父より相伝の焼酎製薬酒を創製し家業としていました。

吉兵衛(きちべえ)は鎖国の時代、唯一他国に開かれていた港であった長崎出島に薬草の買付けに向かい、その途中に何度も鞆の津に立ち寄っていました。

1653(承応二)年、浪速の大洪水のため、家業の再起が難しくなったため、鞆の酒造業者、万古屋(ばんこや)津田六右衛門を頼って1655年より鞆に寄宿をはじめました。

1659年、福山藩主水野家の鞆町奉行中村市右衛門に願い出て、家伝の薬法を以って、鞆の旨酒(今の味醂)と焼酎製銘酒を造り「十六味地黄保命酒」と名付けて、製造販売をはじめました。十六味とは16種の和漢薬が入っていることを示し、現太田家住宅の場所で醸造を始め、屋号を生玉堂(いくたまどう)のちに保命酒屋としました。(※元は十三味であったとの説もある)


鞆は関が原の合戦以降、広島藩城主 福島正則の管轄区になりましたが、福島氏が1619(元和5)年に改易になると、譜代大名の水野勝成(かつなり)が大和郡山から転封してきました。

勝成は、まず神辺城へ入って福山城の完成を待ちましたが、海に面する鞆は重要な拠点と考え、後の2代目藩主てある勝俊(かつとし)を鞆城跡の屋敷に住まわせました。

勝俊が藩主になって20年あまりして「鞆の保命酒」は造られ、福山藩主 水野家の御用酒として庇護され、諸侯や高貴な方々に献上され、また旅行者の喧伝によって、全国に名が広まっていきました。福山藩主は水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代続きました。

薬酒としての「鞆の保命酒」

「鞆の保命酒」は薬酒であるため、幾年貯蔵しても腐敗変味の恐れがないとされ、実用というよりはむしろ、贈答愛玩用として珍重されました。

そのためか、容器には雅味ある優良な陶磁器が用いられ、贈答先によっても容器を区別したようです。窯も知名な産地を選び、形状や上絵にも意匠を凝らした進上徳利は、備前焼(伊部焼)を主とし、摂津の三田、肥前の伊万里、福岡の西皿山、長崎の亀山、伊予の砥部のものもあり、「鞆徳利」と称されました。上絵は中村家に絵付窯を築き、抱絵師に描かしたといわれています。

「鞆の保命酒」の専売制

江戸期後半には「鞆の保命酒」の名声がたかまり、文化年間(1804年~)には類似品の製造販売をするものが京都、岡山、奈良、加賀、尾張大野など様々な地方にあらわれました。中村家は藩当局に願い出、専売制を推進し、保命酒の製法は門外不出、一子相伝(一人の子だけに教える)として、類似品の再発を防ぎ、明治以降は、太田家が買い取り製造を受け継ぎました。

1753年には、博物学者の平賀源内が長崎から讃岐への帰途、鞆に立ち寄っており、平賀源内生祠が美麗な鞆港を見下ろせる医王寺参道の途中に残っています。彼は、溝川家に陶器造りを伝授しながら、琥珀色の「鞆の保命酒」を飲んでいたのでしょう。

川中島の『べんせいしゅくしゅく~夜川を渡る~』で、おなじみの頼山陽は、1800年初めの広島の漢学者ですが、福山藩で菅茶山の門下に入り、源平から徳川までの歴史書、「日本外史」を書き上げています。これも、夜な夜な「鞆の保命酒」があったために、なしえたことでしょう。

鞆の津には、その他、参勤交代の西国大名やオランダ商館長、琉球使節なども来航しています。ツェンベリーやシーボルトと並ぶ出島の三学者の一人であり、イチョウやツバキやザクロを欧州に紹介したエンゲルベルト・ケンペル (1651ー1716:ドイツ生)は、1690(元禄3)年に長崎オランダ商館医として来日し、1691年と1692年に連続して、江戸参府を経験し徳川綱吉に謁見していますが、その途中、鞆に立ち寄ったと記されています。また、シーボルトは1823年6月に日本へ入国し、1824年には鳴滝塾を開設し、医学教育を行いましたが、1826年オランダ商館長の江戸参府に随行して瀬戸内海を往復しての記録「江戸参府紀行」の中で、復路で寄った鞆の植物のことを書いています。

二人とも医者であり、薬用酒である「鞆の保命酒」が眼に留まらなかったわけはありません。
必ずや口にしていることでしょう。ひょっとすると、彼らや東インド会社により、オランダ、ドイツまで持ち帰られたかもしれないと思うと、夢踊ります。

その後、幕末の福山藩主は阿部正弘、ご存知、江戸幕府の老中であります。「鞆の保命酒」は、幕府への献上品となり、ますます諸大名間の贈答用に盛んに用いられるようになりました。正弘は第12代将軍家慶、第13代家定時代において幕政を指揮し、度重なる外国船の来航や海防問題に対応しています。保命酒はさまざまな舞台で飲み交わされたに違いありません。将軍家慶や病弱な家定は勿論のこと、勝海舟、ペリーやハリスもきっと交渉の席で飲んだことでしょう。

さらには、1863年8月18日の政変で、七卿落ちの三条実美が太田家に隠れ住んだ折にも、潮騒の音を聞きながら、「鞆の保命酒」を味わい、京都を思い浮かべたことでしょう。さらにはさらに、1867年坂本竜馬率いる海援隊いろは丸は、瀬戸内航海中に紀州藩の明光丸にぶつけられて鞆の沖で沈没しました。竜馬は、鞆の福禅寺の対潮楼で紀州藩と損害賠償交渉を行ないましたがうまくいかず、長崎まで追っかけて行って解決しています。この際もきっと、「鞆の保命酒」を味わいながら策を練ったことでしょう。

「鞆の保命酒」の気になる中身は?

さて、誰しもが興味をもつ「鞆の保命酒」の中身とは、どんなものだったのでしょうか。

現在の「鞆の保命酒」は製造元である4社の間では、多少の違いが見られます。
そのうち一つを取り上げてみると、味醂と焼酎に生薬「熟地黄、川キュウ、芍薬、当帰、沢瀉、茯苓、白朮、肉桂、甘草、杏仁、葛根、丁字、砂仁、山茱萸、山薬、檳椰子」が漬けられています。
漢方医が構成しただけのことはあって、補血の基本処方である四物湯(熟地黄、芍薬、当帰、 川キュウ)と、牡丹皮は入れられていませんが、腎陰虚の基本処方である六味丸(熟地黄、山茱萸、山薬、牡丹皮、沢瀉、茯苓)から成り立っているように思われます。

さらには、駆瘀血薬とされる檳榔子と丁字が見られます。個人的には、当時珍重された人参が何故入れられていないのか不思議ですが、他社のものには入っています。

ちなみに「薬用養命酒」は「桂皮、紅花、地黄、芍薬、丁字、人参、防風、鬱金、益母草、淫羊藿、烏樟、杜仲、肉蓯蓉、反鼻」の14種からなっており、かなり構成生薬が保命酒とは異なります。養命酒は、信州伊那谷の大庄屋塩沢家の主人が、雪の中の行き倒れ老人(本草家)を助けおこし、介抱して後、薬酒製造の秘法を伝授され、1602年に完成したとあり、当初は「天下御免万病養命酒」と呼ばれていたそうです。

「天下薬用養命酒」も、この老人が飲んでおられたらどーなっていたのだろうかと思うのは、私だけでしょうか。


ついでに、江戸時代の薬酒を上げますと、枚挙にいとまがありませんが、紀州勢州の「忍冬酒」、加賀州肥後州の「菊酒」、南都(奈良)の「霙(みぞれ)酒」、「浅芽(あさじ)酒」などが有名です。
この他にも、枸杞酒、桑酒、赤酒、菖蒲酒、サフラン酒などがあげられます。

さらに、地黄、肉桂、茴香、丁字から構成される「略方保命酒」や、岐阜養老郡の人参、丁子(大黄)、当帰、川キュウ、大茴香、サフラン、甘草など32種の生薬からなるといわれる「養老酒」、構成生薬は不明ですが「常滑保命酒」なども見られます。

蛇足ですが現在一番名の売れている「梅酒」は、元禄8年に書かれた『本朝食鑑』に初めて登場しています。日本における最初のリキュールは平安時代に中国から伝わった「屠蘇酒」だといわれています。

「鞆の保命酒」は江戸時代の一薬用酒ではあるが、こうしてみると江戸時代の渦の中で熟成されてきたように感じられ、味わってみないわけにはいかない。

琴の曲として有名な春の海を作曲した、盲目の宮城道雄も「鞆の保命酒」の香りを感じながら作曲したのでしょうか。
鞆は友を呼ぶといった思いである。
文: 安田女子大学薬学部 教授 神田博史先生

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