徳川家康、貝原益軒、石塚左玄に学ぶ長寿学
先祖の食が長寿国日本の礎
経験的食事(学)は、科学的データに乏しい、古いと、全て否定されるものか。大きな間違いがなかったことで世界一の健康長寿国となっています。我々の体は、そのような経験の上に積み重ねられています。是もあれば非もあるが、非は長い年月の間、いつの時期か相殺されてきました。経験的食事(学)の上に科学的データを積み上げ、実証あるいは否定し、新たな食の開発に繋げ、長い歴史の間の生活習慣が、世界一の長寿国の礎になっています。
家康は霊薬「烏犀圓 」を舐め舐め采配
ボケ防止に鷹狩りと囲碁
以後宜しくと
人は必ず死ぬという運命ではあるが、秦の始皇帝、楊貴妃などは、承知の如く、権力(名声)を得た次は長寿、永遠の美貌を願い(健康寿命)、神農本草経「上品」の薬物や、多くの本草書などを読みあさり、仙人への憧れを抱き、不老不死を願いました。何処の国でも、何時の時代でも、似たり寄ったりの話はあり、クレオパトラも然りであります。
戦国時代に75歳まで現役だったといわれる徳川家康(1542-1616)の健康術は、過剰とも思われるほどの健康オタクであったようで、まずは天海和尚の進言を守り、未病(現代の予防医学)に気を遣い、多くの御典医を傍らに置くと同時に、自ら当時の最高の本草書(薬物全般に関する学問:動物・植物・鉱物に関する博物学専門書)である「本草綱目(李時珍1596)」をいち早く手に入れて学び、泣くまで待とうホトトギス(相手より元気で長生きする)と、長寿・精力増強作用があると思われる補腎生薬53種類を混ぜ合わせた水飴「
しかしながら、これほど気を遣った家康でも、晩年は肥満傾向にあり、身の丈は推定150~160cm、胴回りはなんと120cmで、一人で下帯(フンドシ)が結べなかったそうであります。ともあれ、アンチエイジング、パワーリハビリ、セルフメディケーション、未病医学を実行し、健康長寿を全うした先駆者であったようです。将棋対局の度に、腑(歩)に落ちないと、歩の戦略を熟考し、囲碁対局が終わる度毎に、以後宜しくと言ったとか。
貝原益軒は「薬補」は「食補」にしかず
小児の、初めてよく食し、よくものいう時より早く教えし
長命にする薬は無し といへり
貝原益軒(1630-1714)の「養生訓(1712)」に「『薬補』は『食補』にしかずといへり 老人は殊に『食補』すべし『薬補』は、やむ事を得ざる時 用ゆべし」とあります。健康は、薬に頼るのではなく、食養生が大事である。特に老人の健康は食養生に留意するべきで、それでも病が生じたときにだけ薬に助けを求めればよい、と説いています。更に、「和俗童子訓(1710)」に「小児の、いまだ悪に移らざる先に、かねて、早く教ゆるを云う。早く教えずして、悪しき事にそみ習ひて後は、教えても、善に移らず。戒めても、悪をやめがたし。古人は、小児の、初めてよく食し、よくものいう時より早く教えしと也」とあり、食も含めて物事の良し悪しは、物心つく前から教えるべきであると説いております。この他、「養生の道はあれど、むまれ付かざる いのちを、長くする薬はなし」とも記しております。
石塚左玄は食によって人の心も変わる
家庭での食育が最も大切である
明治時代の石塚左玄(1851-1909)は、日本の医師で薬剤師でもあり、陸軍で薬剤監、軍医を勤めました。玄米食・食養の元祖で、
当時の栄養学がタンパク・デンプン・脂肪のカロリーによって説明されていることに反対し、日本人は①食物至上論 ②陰陽調和論 ③穀物動物論 ④一物全体食論 ⑤身土不二論 これら、五つの原理に基づいた食べ方をしなければならないことを執拗に説いております。
判り易くまとめれば、1896年化学的食養長寿法として「西洋食は日本人の精神と肉体を作っていく時、必ず調和が破れる。食によって心がかわってくる」(食養体心論)とかなり過激な食事学を記しています。また、益軒と同じく、親の子供に対する家庭での食生活に果たすべき役割を説き、家庭での食育が最も大切であると言っています。いずれも健康維持、長寿における食事の重要性を訴えており、我が国の「食育」の原点であります。主張の正当性は、現代の食物繊維、魚類、豆類摂取の減少による、大腸がん、乳がん、血管疾患などの増加が証明しております。
神田 博史先生
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略歴
厚生省国立衛生試験所 生薬部
元 広島大学 薬学部 准教授・薬用植物園園長
元 安田女子大学 薬学部 教授・薬用植物園園長
元 広島国際大学 薬学部 教授・薬用植物園園長
元 広島国際大学 医療栄養学部 教授
内閣府地域活性化伝道師